繁栄に関するあらゆる反対意見がこれまで言われてきました。
しかし繁栄は今のクリスチャンにとってとて重要かつ必要なことなのです。
悪魔は私たちにお金を所有してほしくないからでしょうか。
なぜ私たちは繁栄を今、説教すべきなのでしょうか?
人間にたいしての神様の御心は繁栄なのです。
(そのことについての確認が必要なならば、
どうぞ 繁栄に関する聖書の証明
というパンフレットを読んでください。
* 人々の貧困を神様は喜ばれません
「彼らにいつも言わせてください。“ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。”と。」
詩編35:27
人々が与えるのに十分なお金を持っていないとき、神は喜ばれないのです。
「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」
ピリピ4:18
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
Uコリント9:7
* イエス様は全人類の繁栄のための代価をすでに支払われたのです
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
イザヤ53:5
あなたが聖書の中に出てくる“平安”という言葉の意味を調ると、実はその言葉は生活全般における幸福な状態という意味をもっていることに気づくでしょう。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
Uコリント8:9
なぜイエス様は貧しくなられたのでしょうか?
それは私たちに貧しさの模範を示すためではなく、
あなたが富む者となるためなのです。
そのための代価はすでに支払われたのです。
* 私たちはすべての人にイエス様の教えてくださったこともれなくを教えてゆく必要があるのです。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
マタイ28:19−20
繁栄はキリストの福音の一部分なのです。 イエス様は私たちにこう命ぜられました。
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
マルコ 16:15
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、」
ルカ4:18
*すべての人に福音を宣べ伝えるというイエス様の大命令を、私たちが従うときお金が必要になってきます。
この地上におけるところのキリストの体 (クリスチャンの集まり)には多くの必要があります。
財政的な欠乏によりこれまでなされるべきはずのいろいろな伝道プログラムが妨げられたり、制限されてきたりしました。
もっと多くのお金があれば、より多くの人を助けることができます。
より多くのクリスチャン文書を印刷、出版することができますし、またより多くの宣教師を送りだすこともできます。
またより多くの教会を建てあげることもできます。
いったいイエス様が死なれたほどに愛さたれ多くの人のために、福音を宣べ伝えるという働きが妨害されるのは神の御心なのでしょうか?
私たちはより快適に過ごすためだけに繁栄が必要なのでしょうか、もちろんそれ自体は間違っていないのですが、実は私たちがより豊かに実を結ぶキリストの体の一員となるためなのです。
* 多くの人は他の何にもまして経済的必要をもっているのです。
何百万人という人が栄養失調のために苦しみ、死んでゆきます。何百万という人が適切なな住まいや衣服を持つことなく生活しています。
偉大な神様だけがみんな一人一人の必要を満たすことができます。
私たちには神の助けなくして、この世の人々を助けてゆく資源はありません。
世界のすべての人はそれぞれ神の祝福に歩みながら生活し、生産的である必要があります。
神の御言葉の中に、いままで神が人々を物質的に祝福したと述べている箇所があるでしょうか?
神は何百年も前にガリラヤの地でされたように、人々が空腹の状況を見て心配なさらないのでしょうか?
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。“かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。”」
マタイ 15:32
お金がない状態で食物を得ることができるでしょうか?
* 私たちは信仰によってのみ神から受け取ることができます
「そこで、イエスは彼らの目にさわって、“あなたがたの信仰のとおりになれ。”と言われた。」
マタイ9:29
「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」
ガラテヤ3:9
私たちは信仰によってのみ神の恵みに入ることができます。
「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」
ローマ5:2
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
エペソ2:8
神はこのように、私たちを無視するためでなく、
神の祝福がすべての人に必ずくるようによき計画を立て上げられたのです。
「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。“わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。”と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」
ローマ4:16
* 信仰は、繁栄に関する神のメッセージを受け取ることにより来るのです。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」
ローマ10:17
信仰は聞くことから始まります。 人々にこのメッセージが届かないならば、人々は繁栄を信じることがないでしょう。
聖書のなかにある多くの御言葉が神御自身が人類の繁栄に関心があるとういことを知らせています。
あなたがこれらの繁栄に関する御言葉でこころを養っていかないのならば、神の御心は繁栄であるとは信じることがないでしょう。
もしだれもイエス様は私たちの罪の代価を支払うために死なれた救い主であると宣べ伝えないならば、どういうことが起こるでしょうか?
彼らはそれでも自動的に救われてゆくのでしょうか?
だれも彼らにイエス様のことについて宣べ伝えていないのに、彼らはイエス様を信じることができるでしょうか?
もし世界中の貧しい人たちに対し、神の御心は彼らの必要が満たされることであると誰も彼らに宣べ伝えないならば、いったいどういうことになるでしょうか?
神の御言葉はすべての人のためにあるのです。
「 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」
Vヨハネ1:2
神の御言葉の教えをより多く受け取るにしたがい、あなたはあなたの魂に幸いを得ることになるのです。
神はあなたがあらゆる生活の場面において祝福を受け取ることを望んでおられます。
ただ単に誰かが以前に、この繁栄のメッセージを聞いて乱用したとしても、
それはこの御言葉の真理を語らないための言い逃れにはならないのです。
あなたはどのくらい繁栄が神の御心であるという説教を聞いたことがあるでしょうか。
いままでどのくらいの数の説教者がこの題材について語ってきたでしょうか?
そのこととは対照的に、あなたはこれまでどのくらい救いについての説教を聞いてきたでしょうか?
あなたは神が人を繁栄させることよりも、神が人を救うことに関し確信がありますか?
なぜでしょうか?
聖書は霊的救いについて多くを語っているからでしょうか。
実はそうではないのです。 イエス様は天国や地獄に関してよりも、お金に関してより多くを語りました。
信仰はその題材に関する神の教えを聞くことによってのみくるのです。
あなたがこの繁栄に関するメッセージを聞かない限り、あなたは繁栄を信じるための基盤がない状態なのです。
大きな信仰はたいへん多くのクリスチャンがある御言葉について、強く信じているときに引き起こされます。他の多くのクリスチャンがすでに信じていることを同じように信じることはとても容易なことなのです。
今では、飛行機で太平洋を横断するのは、それを始めて成し遂げたパイロットの人の気持ちと比較すればとて簡単なことのように思えます。
より多くの人がすればするほど、私たちにとってより信じ易くなるものです。
より多くの罪人がイエス様を受け入れ、イエス様によって彼らの人生が変わってゆくとき、神はまさに人をお救いになる方だと信じることはやさしいのです。
聖書の中のある題材も同じように扱われます。
今日、50年前に比べて、イエス様はいやし主であると信じる人の数ははるかに多いのです。
このことはすぐに起こったことではなく、多くの説教者がいやしについて語ったからであり、また多くの人が神からのいやしを体験したからなのです。
それと同じように、私たちがより繁栄について学び、説教してゆくときに、私たちの信仰は大きく成長してゆき、教会もより前進してゆくのです。
* 神の御言葉はもし植えられれば、実を結ぶ種のようなものなのです。
「.....種は神のことばです。」
ルカ8:11
もしあなたがきゅうりの種をぜんぜん畑に蒔かないならば、どのくらいのきゅうりを収穫するでしょうか?
もしあなたが麦の種を畑に蒔かなかったなら、どのくらいの麦を収穫できるでしょうか。
イエス様は明確に神の言葉は種であると言われました。
ですから、神の御言葉の種を蒔かずして、収穫を期待することはできるでしょうか?
もしあなたに繁栄に関するメッセージが語られておらず、またあなた自身でこのことについて学び、黙想しないならば、あなたに繁栄の種が蒔かれていないことを意味するのです。
ですから、あなたの生活に豊かさという収穫を見つけることができなくても、どうか驚かないでください。
聖書からの説教なしに、人々の中にあることがらにについての信仰を持ってもらうということはでません。
これがまさに“主の御心は繁栄である”という題目が置かれている状況なのです。繁栄について説教される変わりに、まったくそれとは正反対の嘘がよく説教されるのです。
例(神を喜ばせ、より霊的なクリスチャンであるためにはあなたは貧しくなくてはなりません)
ですから、多くのクリスチャンは彼らの繁栄が神の御心であると信じていのも不思議ではないのです。
彼らには繁栄に関する種が彼らの心に植えられていないからです。
かつて少しだけ植えられた種は、引き抜かれるようにそそのかされているのです。
私たちがより繁栄について宣べ伝えるとき、よりキリストの体は繁栄を信じるようになるでしょう。
私たちがより繁栄について信じるときに、より神の祝福を受け取ることでしょう。
私たちがより繁栄してゆくときに、より多くの人を助けることができます、そして、そのことにより、神はより喜ばれることになるのです。