教会とは一体何なのでしょうか?

 

教会とは、主イエスキリストを信じ、キリストの権威のもとで、協力し合う人々の集まりのことです。 

ゾンダーバン注解聖書辞典に拠ると英語で教会という言葉はギリシャ語のキリヤコンという言葉からきており、”主に属する”という意味があるのです。

しかし、新約聖書における”教会”という語はギリシャ語のエクレシアという語から訳されています。 エクレシアとはクリスチャンの集まりを意味するのであり、決して建造物を指した意味ではないのです。 エクレシアとは当時、市民が集まって何かの会合、集会を指すのです。

エクレシアとはギリシャ語で人々の自由意志によって集まる集会や会衆のことを意味します。 

エクレシアという語には、礼拝を捧げる場所という意味はないのです。 むしろエクレシアという意味は人々の集まりに関連した意味をもつのです。

生ける主の臨在をもって、地域の教会の確かさが証明されてゆくのです。

マタイ 18:20

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

注目すべき点は、イスラエルの民にたいしては、どのように幕屋を建設すべきか、また司祭はどのようにあるべきかが具体的に述べられています。しかし新約聖書においては、教会の指導者の役割、適正については明確に述べられていますが、教会のありかた、また運営に関してはあまり詳しく述べられていません。

新約聖書が明らかにする教会の姿は、様々の外観の違いを持つ教会が互いに心から一致しているときに良く表されます。 (ゾンダーバン)

私たちの限られた知識でみる現代における一般的な教会の姿は、新約時代においては典型的な教会の姿ではないかもしれません。 (エルサレムの例を除いて)

当時の各々の教会が持つ教会組織体系、伝道のあり方、考え方、道徳のレベル、また霊的達成度の違いは、私たちが考える以上に違っていたのです。 (新聖書辞書)


キリストの体

エペソ1:22−23

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

Tテモテ 3:15

「それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」

これらの御言葉によれば、教会はキリストの体であり、神の住まいなのです。

 

教会、それとも複数の教会

主キリストの下にはすべての教会が一つに集まり、唯一のキリストの体なる教会が存在するのです。

Tコリント16:19

「アジヤの諸教会がよろしくと言っています。 アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」

Uコリント 8:19

「そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。 私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。」

この上記の御言葉は ”諸教会の任命を受けた” という箇所があります。 ですから、教会どうしの協力また連絡があったことがわかります。

 

彼らが集まった場所

使徒 2:46

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、」

使徒 5:12

「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。 みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。」

これらのことは神殿のあったエルサレムで行われていました。 当時の人々は各家で集会をもったと書かれています。

使徒の5章以下には、当時のクリスチャンが家以外で集会、または礼拝をもったとは書かれていないのです。 

下記の御言葉が家での集会が行われた事実を示してます。

使徒8:3

「サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」

使徒 12:5,11,12

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」

「そのとき、ペテロは我に返って言った。 “今、確かにわかった。 主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。” こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。 そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。」

使徒 20:8

「私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。」

使徒 20:20

「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、」

Tコリント 16:19

「アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」

コロサイ 4:15

「どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。」

レモン 1:2

「姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」

私たちの知る限りにおいて、新約聖書の中には教会の建造物に関して特別に述べられている箇所はどこにもないのです。

それでは教会が建物をもつことは間違ったことなのでしょうか? そういうことではありません。 明らかなことですが、教会の建物をあまりに重要視しすぎることが間違っているのです。

 

彼らが集まった時

ヨハネ 20:19

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。 弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。”平安があなたがたにあるように。”」

ヨハネ 20:26

「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。 戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って ”平安があなたがたにあるように。” と言われた。」

ヨハネ 21:1

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。」

イエス様は週のはじめに集会をもたれました。 ある人は、それゆえに、私たちも週のはじめに集会を持たなければならないと考えます。 しかし、イエス様は8日後に集会を持たれたこともありましたし、また海岸で集会を持たれたこともありました。 ということは教会も常に、海岸や、または月曜日、火曜日に集会を持つべきなのでしょうか?

使徒 2:46

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし」

初代教会時代における、エルサレムにいるクリスチャンであるユダヤ人は毎日集まって礼拝を守っていました。

使徒 20:6−7

「種なしパンの祝いが過ぎてから、私たちはピリピから船出し、五日かかってトロアスで彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。」

Tコリント 16:2

「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」

上記の二つの御言葉は週の初めに集会がもたれたということを示しています。 ユダヤ人は日が暮れた後からが次の日の始まりと考えますので、週の初めの日とは土曜の夜を指すのです。 ですからある特定の曜日が、教会の集会をもつ上で正しいならば日曜日(または土曜の夜)であるべきです。 しかし、その曜日を律法にするまえに、次の御言葉を見てゆきましょう。

ローマ 14:5

「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」

もし教会における集会日がある特定の曜日に行うことが正しいならば、ローマ14:5 の御言葉はどのように理解したらよいのでしょう。 御言葉には何曜日に集会を持つべきかに関しては明確に述べられていません。 ですからわたしたちはあまりそのことに関して議論すべきではないのです。

初代教会において週に何度集会がもたれていたか、また何曜日に集会がもたれていたかは不明なのです。 

使徒20:7 ”週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。”  

”この使徒の御言葉は当時の教会の一般的な礼拝日を表しているかもしれません、もしそうであるなら週の初めの日に集会をもつという見方は正しいと思われます。 ここでいう週の初めの日というのは安息日(土曜日)が終わった後の時間、すなわち土曜の夜にクリスチャンの集会が持たれていたということです。” (新聖書辞典より)

”週の初めの日は安息日のようには守ることができませんでした。 安息日は異邦人にとっては休日でないためです。 パウロは ローマ14:5 において述べているように主への礼拝の日を守ることに関して拘束的なルールがあるとは述べていません。 ユダヤ人のメンバーは異邦人の兄弟と交わらないという多くの習慣を確実に守ったことでしょう。(新聖書辞典より)”

御言葉には明確に述べられていませんが、おそらく初代のクリスチャンは土曜の夜に集会をもったことと思われます。 (土曜の夜は彼らにとっては週の初めなのです) なぜなら、ユダヤ人にとっての休日のすぐ後に集会を行うことができるからです。

その後、時代がたつにつれて、週の初めに集会をもつということが、神聖なる伝統となっていったのです。

 

彼らが共に集まるとき、彼らは何をしたのでしょうか?

ヘブル 10:24−25

「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

使徒 2:42,46,47

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

使徒 20:7−12

「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。 ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。 抱き起こしてみると、もう死んでいた。 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、”心配することはない。まだいのちがあります。”と言った。 そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。 人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」

 

献金を受ける

Tコリント16:1−2

「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」

 

宣教報告を受ける

使徒 14:27

「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」

使徒 15:4

「エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。」

 

教えを受ける

使徒 11:26

「彼に会って、アンテオケに連れて来た。 そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」

Tコリント 4:17

「そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」

 

病人のために祈る

ヤコブ 5:14

「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」

病人のために祈るということが、一般の集会においてなされたとははっきりとは述べられていませんが、おそらくそうであったと思われます。

 

聖餐式 (主の晩餐)

パンを裂く、主の晩餐を取る、聖餐式を受けるなど、様々な呼び方がありますが、聖餐式は人々が集まる時に教会で行われていたことです。 次の御言葉によれば、時には、聖餐式のゆえに問題がおきたそうです。

Tコリント 11:20−22

「しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。 私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。 ほめるべきでしょうか。 このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」

主の晩餐はただ単にクラッカーを食べて、ジュースを飲むということではなく、この式にはそれなりの重要な意味があります。 この儀式はユダヤ人の過ぎ越しの食事の型にならって行われているのです。

Tコリント 11:33−34

「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。 空腹な人は家で食べなさい。 それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。」

最後の教えは、隣人に思いやりのこころを持ちなさいという教えでした。

 

御霊の賜物

Tコリント 12:28

「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」

神ご自身がこれらの人々を教会に任命されたのですから、これらの教会(人々が集会に集まっているとき)において御霊の賜物が機能し、働いていたことは確実なことだったのです。

Tコリント 14:4−5

「異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。 私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。 もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。」

Tコリント 14:26−31

「兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。 あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。 そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。 自分だけで、神に向かって話しなさい。 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。 あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。」

これらの御言葉は、教会において人々が集まるときになされるべきことを明確に述べています。 また聖餐式、死人をよみがえらせる、献金を受ける、宣教報告を受ける、教えを受ける、神への賛美、また祈り等について述べている御言葉をもどうか覚えておいてください。

新約聖書が触れてないことを、教会がおこなうことは間違っているのでしょうか? おそらく間違ってはいないでしょう。 歌(賛美)を歌うことを考えてみて下さい。 新約聖書には、教会での集会における歌に関する御言葉はありません。 しかし、御言葉は主に歌を歌いなさいと述べています。

教会に関することで、私たちの思いの中では、必要不可欠なこと、または神聖なことであったとしても、それらはただ単に伝統にすぎないこがあるのです。

これらの伝統が必ずしも悪いわけではありません、しかし必ずなければならないものでもありません。 もしかするとそれらの伝統が私たちに害を及ぼすかもしれません。