赦しなさい
あなたは人を赦すように召されているのです。 たとえ彼らがあなたにどんな悪いことをしたとしても、御言葉に従って私たちクリスチャンは人を赦さなければならないのです。
赦すことは神からの命令なのです。
現実は、赦さないことによってあなた自身が傷つくのです。 あなたが神の祝福を願うならば、あなたは赦さなければならないのです。
あなたを本当に傷つけた人を赦すのは不可能なことに思えるかもしれませんが、神にあって赦すことができるのです。 神は私たちができないことを要求されないのです。
もしあなたが赦されたいのなら
マタイ 6:12,14,15
「私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
マタイ 18:35
「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
マルコ 11:25−26
「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
ルカ 6:35−38
「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
私たちが心で量る度合に応じて、私たちも量り返されるのです。 私たちが周りの人から、哀れみや、赦しを受けたいと思うなら、まず私たちが率先して人々に哀れみを示し、また赦してゆかなければならないのです。
私たちを少しだけ傷つけた人を赦すだけでは十分ではありません、私たちはすべての人を赦すように召されているのです。
何度赦すべきなのでしょうか?
マタイ 18:21−22
「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。 ”主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。”
イエスは言われた。 ”七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。”」
もちろんイエス様はここで赦す回数に限度を定めているのではないのです。 イエス様は7の70倍という490という数にとらわれるのではなく、人々を制限なく赦しなさいと命じておられるのです。
ルカ 17:3−4
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、”悔い改めます。” と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
私たちが見習うべき模範
ルカ 23:33−34
「”どくろ” と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。 犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。 そのとき、イエスはこう言われた。 ”父よ。 彼らをお赦しください。 彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。” 彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」
このような極限状態で人を赦すというイエス様の示される姿勢は、普通の人間の意志の力、経験をはるかに超えているのです。 このような状態で赦すことができるのは、神の力にあってのみ赦すことができるのです。
エペソ 4:32−5:2
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」
神が私たちを赦してくださったように、私たちも人を赦すようにと命じられているのです。 神の助けを得ることによって、私たちは人を赦すことができるのです。
コロサイ 3:12−13
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」
赦しても、赦さなくても個人の勝手だからいいではないかということでは決してないのです。 もし私たちが神の祝福と、良い交わりを願うならば、神が私たちを赦してくださったように、私たちも人を赦さなければならないのです。
赦すことは気分的なことではないのです。 今後、人に対して一切恨みをもたないという決断なのです。 私たちが赦すとき、私たちは彼らを解放し、また過去に受けた傷を忘れ去らなければならないのです。
赦しの祈り
神よ、どうか さんをわたしが心から赦すことができるように助けてください。 神よ、あなたは彼らが何をしたか知っておられます。 あなたからの助けを受けて、私は彼らを赦し、解放することを決断します。 主よあたなの彼らへの愛を私に与えて下さりありがとうございます。 主が彼らを、主の力と愛によって、赦し、解放されることを求め、お祈りいたします。 また主にあって、私が彼らを赦すことができ、主が導かれるままに彼らと接することができるよう、主が私を助けてくださることを心より祈り感謝致します。 この祈りをイエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン