イエス様にいつも目を向けましょう! (Focus on Jesus)
イエス様が私たちの思いの中心でなければならないのです。 私たちがイエス様のためにする行い、宗教的な活動、また周りの人々が私たちの思いの中心となってはならないのです。 すべてにおいて、私たちの主であるイエスキリストが私たちの焦点とならなければならないのです。
Tコリント1:9
「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」
宗教的な集会に参加することが私たちの生活の中心であってはならないのです。 集会に参加することによって神をよりよく知ることができ、神の御心を行うために整えられるならば、そのことには意義があります。
私たちが献金するとき、ただ単に福音のためにとか、人々の必要を満たすという動機だけからするのではなく、イエス様を礼拝し、イエス様に従うという心の動機から献金することが大切なのです。
イエス様を喜ばせるということが、私たちの人生において中心となるべきことなのです!
コロサイ 1:15−18
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。 万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 また、御子はそのからだである教会のかしらです。 御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。 こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」
あなたの毎日の生活において、イエス様が第一となっているでしょうか? あなたの心の内においてはどうでしょうか? もしイエス様があなたにとって一番でないなら、なぜそうではないのでしょうか?
イエス様の大宣教命令だけがすべてではないのです
私たちは弟子を作り、福音をすべての人に伝えなければならないという大宣教命令を持っています。 しかし、神は他にも大切な命令を私たちにくださいました。 たしかにそれらは重要ですが、イエス様が人類の救いの収穫の主であられるのです。 大切なことは私たち自身が主であってはならないのです。
マタイ 9:37−38
「そのとき、弟子たちに言われた。 ”収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。”」
* 神は収穫の主であられます。 そして神は収穫よりも偉大なお方であられるのです。
* あなたもわたしも収穫の主ではないのです。 神こそが主であられるのです。
* 神は魂の収穫のために私たち以上に気をかけておられるのです、人類を救うために神の一人子与えてくださったほどにです。
* 神は私たち以上に周りの状況を知っておられます。 神は成功的な収穫方法を計画できるお方であり、またそれを実行できるお方なのです。 私たちはそうではありません。
* 収穫は神のものです、私たちのものではありません。
* ですから、私たちは神に焦点をあて、そして私たちのするすべてのことにおいて、神こそ主として仕えていきましょう。
イエス様が収穫の主に祈るようにと言われたのは、私たちが神に何かを説得させようとするためではなく、私たちが祈ることによって、神を見上げ、神の前に静まり、神からの導きを得るためたのです。
私はある有名な牧師が、私の目標はより多くの人の魂をイエス様のために勝ち取ることだとと言っているのを一度聞きました。 しかし、わたしの人生における価値観、目標は同じではありません。
私にとって大切なことは、神と共に歩み、神に従って行くことなのです。 キリストの体全体のためには、結果的にできだけ多くの人々の魂をイエス様のために勝ち取るということになりますが、私が計画していたとうりになるとは限らないのです。
私が言っていることはイエスが主であられ、私以上にすべてを知っておられるということです。 つつしむべきことは、イエス様の命令だけを受け取って、 自分だけの努力で、御心を達成しようなどと先走りしないことです。 私は常に主のうちに留まっておく必要があります。 私があゆむ、一つ一つのステップを神によって導かれる必要があります。 私は自分の考えにより頼むのではなく、心から神に信頼し、神により頼むまければならないのです。
イエス様の御体の一員として
このたとえを考えてみて下さい、もし体の部分部分が脳から受ける指示に従わず、勝手に動いたらどうなるしょうか? (このことをキリストの体に当てはめて考えてみることが大切です。)
Tコリント 12:12
「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」
エペソ 1:22-23
「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
私たち一人びとりはキリストの体の一部分にすぎないのです。 私たち全員が頭ではないのです。 イエス様が私たち全体の頭であられるのです。
イエス様はクリスチャン一人びとりを御体の一部分として、効率よく全体をコーディネイトとして、イエス様御自身が願われる結果を私たちをとうして成し遂げてくださるのです。 体の部分部分はそれぞれ異なる機能を持ちますが、体全体が正しく働くためにはすべての部分が大切なのです。
ローマ 12:4
「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように」
神を第一としましょう
マタイ 22:36-40
「”先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。” そこで、イエスは彼に言われた。 ”心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。”」
私たちにとって最も大切な主からの命令は心から神を愛することなのです。 人々を愛することは、まずイエス様を愛してからすることなのです。 実際には神は人々を愛しておられるのです。 神を愛することは、結果的に人々を愛することになるのです。
もし私たちの優先順位が逆になるならば、そのことはすなわち、人々と彼らの必要を満たすことが第一になるということです。 もしそのようなことが起これば、私たちは現実には、人々を助けるときにおいて、神を第一とした場合と比べてあまり効率的でなくなるのです。
私は自分のことを大宣教命令クリスチャン、バプテスト、カソリック、ペンテコステとなどと自分のクリスチャンライフに名前を付けるようなことはしません。 私はそのようなことに反対や、批判をしているのではありません。 私はイエス様に心から従う決心をしたからです。 私はイエス様を私のもっとも大切な優先順位とします。
私にとってもっとも大切なことは神なのです。 私はイエスキリストを信じる者なのです。
私はイエス様に従う人間であり、彼の弟子でもあります、なぜならイエス様を信じるからです。
イエス様は私たちの主なのです。