聖書は神の言葉です


聖書は神からの啓示(啓示−人の力では知り得ないことを神が教え示すこと)の言葉です。 神は聖書をとうして神ご自身のこと、また神のご計画について人間に知ってもらいたいのです。

聖書は唯一、神から人間へと書かれた啓示の言葉です。 これまでうまく聖書を非難できた人は、ひとりもいないのです。 これまで多くの人が聖書を非難してきましたが、それらの非難はいつも重要なポイントを避けて聖書に逆らうものばかりでした。 今日まで、聖書の霊感と聖書の真実性の確かさに関しての多大な公正なる研究がなされましたが、聖書の真実性を否定できる人はだれ一人としていないのです。 歴史的な記録によれば、これまで聖書を真っ向から否定しようと努力を重ねてきた人たちは、結局、聖書を信じる人へと変わっていったのです。


聖書が貫く一つのテーマ

聖書は66冊の各書から構成されています。 1600年の間に、約40人にのぼる様々な職業、生活様式の異なる筆者によって書き記されました。 にもかかわらず、聖書は一貫したテーマについて語っているのです。 このような奇跡は、何十人の筆者を統制される神によってなされた以外は、説明がつかないのです。

聖書の筆者は様々な人生送った人たちで構成されています。 筆者の職業を上げますと、その中には王様、農夫、哲学者、漁師、牧夫、詩人、政治家、軍人、祭司、予言者、 税金取り立て人、テント作りをするユダヤ教指導者、異邦人の医者などが上げられます。

聖書は3つの言語から書かれました: ヘブル語、アラム語、ギリシャ語です。

聖書はさまざまな文章形態 (歴史、法律、詩、教育的論説文、たとえ話、伝記、個人的書簡、予言)によって書き記されています。

人間によって書かれた様々な書物は一つの主題ですらも、意見の一致がとれません。 作者たちのあいだで、いつも意見が食い違ってくるのです。 しかしながら、あらゆる分野において、何百という主題を語る聖書の中の各書のあいだには、完全なる意見の一致があるのです。

いったい神様以外に、誰がこのような偉業を成し遂げることができるでしょうか。


超自然的な聖書の源


聖書の筆者の中には、自らが犯した、恥ずべき不名誉な罪を、正直に記録している者がいました。 ほとんどの場合において、 彼らが事実を正直に書き記したがために、彼ら自身の生活や世間体が危険にさらされました。 普通人間は性質上、そのようなことはしません。

聖書の筆者はその書き方において、聖書の内容の源は超自然的なもであると主張しています。 “このように主が言われる"、“主の言葉が私にくだった" というような表現が、聖書の中に約4000回ほど記録されていることからそのことがわかります。

もし聖書が神の言葉でないなら、 聖書に書かれていることはすべて嘘ということになります。 一体どのようにして、嘘で満ちた本を読むことにより、何百万という人々が罪 (嘘も含めて)から悔い改めることができるのでしょうか?

成就された聖書の予言による証明


未来に対する何百もの予言が聖書には記録されています。 実際にその予言が成就する何世紀も前に書かれたものもあります。 それらの予言に記されている詳細は、実際に一つの間違いもなく起こったのです。

他のどんな宗教関連の本ですら、このように的確に未来を予測した本はないのです。 だれ一人として聖書の正確な予言にたいして、事実を用いて、聖書の誤りを正しく指摘できた人はいないのです。 彼らにできることは、実際に起った事実を、人々が無視するように仕向けるだけなのです。

何十人もの人がまったく違う国で、しかもかけ離れた時代に、かつ正確に未来を予言するこが偶然にできるでしょうか。 絶対にできないはずです。 このような偉大なことは、神によってのみなされるのです。

神以外に、このように未来について実際に起こる何百年もまえから、未来に起こる出来事を詳細に明らかにできる人は一人もいません。

ただ単に未来の町々、国々、世界についての予言だけでなく、イエスキリストの生誕、伝道活動、死、復活についての予言も含まれているのです。


キリストに関する予言


旧約聖書は約千年以上の期間を経て記されました。 旧約聖書には、救い主の到来について何百もの御言葉が言及されています。 実際にすべてこれらに書かれていることは、イエスキリストによって成就されたのです。

これらすべての予言が、旧約聖書に書かれたとうりに実現した、驚くべき確率性は、人間の理解力を遥かに超えています。 このことにより、聖書の中に書かれてある予言は、真に神の霊感によって書かれたものであると証明せざるをえません。

第一ペテロ 1:11

「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。」

ルカ24:44

「さて、そこでイエスは言われた。わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

ヨハネ5:3946

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」

イエスキリストに関する話は、旧約聖書の中にでてくる典型的人物、象徴、儀式などをとうして織り交ぜられています。 聖書に書かれてあるすべてのことは、イエスキリストに焦点が合わせられています。

長老たちについての伝記、幕屋や寺院の建設、礼拝、生けにえの捧げもの、儀式、他の典型的人物、人目には付かないような場所、これらすべてはイエスキリストを予示するものなのです。


イエスの証明


歴史的事実を研究する正直な人は誰でも、イエスキリストは真実に死から復活された特別なお方だと認め、また結論づけます。 イエスキリストは、旧約聖書は真に神の言葉である認めています。 イエスキリストが地上におられた時代には、旧約聖書はすでに完成していました。

マタイ5:18

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」

聖書はイエスの権威の証印をもっているです。 イエスは何十回も旧約聖書を神の言葉として引用されました。

たとえば、マタイ 22:32 において、 イエスは出エジプト3:615 を引用されました。

マタイ22:293132

「しかし、イエスは彼らに答えて言われた。そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

「それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。」

「“わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であります。”とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」


聖書が人間の生活に効果をもたらしたことへの証明

これまで何百万という人々が聖書の命令、教えを守ってきました。 そのことにより彼らは聖書の約束を獲得することができたと証言しました。 あなたの近くにおられる人も、きっとそのようなあかしをもっておられることでしょう。

聖書の御言葉は人間にたいして、場所、時代に関係なく働きます。 そのことはつまり、わたしたちを含め、すべてを創造されたお方は、聖書の著者と同じであることの証明なのです。

製造業者だけが、そこで組み立てられる製品の適切な機能のために、取り扱い説明書を書くことができるのです。


人間の生活が聖書によって向上したことについての証明


これまで何百万もの人々、また様々な国々が聖書を神の言葉として受け入れることにより、彼らの生活環境が良くなりました。

今日、イエスキリストを信じ、聖書を神の言葉であると信じる人々の数は、他のいかなる宗教上の信条、哲学を信じる人の数よりも多いのです。

多くの人々は、聖書の主張は条件さえ整えば、書かれているように実現したと証言しています。

人々の間で、聖書が受け入れられるところなら、どこにおいてでも、御言葉の働きにより、彼らの生活環境が著しく改善し、彼らの人生がすばらしいの計画へと高められるのです。

聖書のメッセージにより、 ある本当にひどい罪人さえも、愛に満ちた立派な人へと変わることができました。 聖書以外のどんなによいメッセージを用いても、このよな奇跡は行われないでしょう。

人々、また社会全体が聖書を信じ、受け入れ、従うときに、個人、または社会を取り巻く改善させることができるのです。 聖書のもたらす実は、いつも良いものであり、健全なものなのです。 聖書を無視することはいつも罪、苦しみ、悲しみを意味するのです。


考古学的な証明


聖書は歴史的に正しいのです。 聖書が歴史的に間違っていると証明した人はこれまでだれ一人としていません。

私たちが歴史をより学習すればするほど、聖書の正しさを確認することできるのです。

過去において、聖書のなかの何百もの御言葉の箇所が真実ではないと、聖書を反対する人々によって非難され続けられました。 しかしながら、現代では考古学者らの発見により、それらの御言葉は真実であると証明されました。 考古学者による聖書時代にたいする調査において、新たな発見が進めば進むほど、聖書は歴史的に正しいと証明されてゆくのです。

考古学上の発見で、聖書の誤りを指摘できたことは、今まで何一つとしてないのです。 聖書は私たちが信頼できる神の言葉なのです、また歴史的見地からも、確かな神の言葉なのです。


聖書は科学的に正しい


聖書を正しいと認めない科学者がいます。 しかしながら、どの科学者も聖書が正しくないと証明できないのです。 実際には、大変多くの科学者達は、聖書は科学的に正しいと認めています。

人間は、数千年前にすでに聖書に書かれていた様々な法則や事実を、科学的に発見し、証明するために何百年も費やしました。 もしそれらの法則や事実に関する情報を、聖書の筆者が神から直接もらわなかったならば、聖書を書いた筆者達はどこでその情報を得たのでしょうか。


聖書は決して時代遅れになりません


聖書は何百年も前に書かれたにも関わらず、聖書はいつの時代においても、一番役立つ最新の書物なのです。 様々な題目に関する一般書籍は、すぐに内容が時代遅れになるので、新しく改訂され、置き換えられます。 しかし聖書は決して改訂され、修正される必要がないのです。

(原文から訳された聖書だけが、現在の言語使用法に合わせるために改訂されてきました。)

詩篇89:34

「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。」

詩篇119:89

「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。」

聖書はいつも世界のベストセラーであり続けるのです、なぜなら聖書は、万人共通の心に語りかけ、神からのメッセージを人々に与えるからです。

ヘブル4:12

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

聖書はすべての人に、すべての文化において、すべての時代において関連性をもつ神の言葉なのです。 なぜなら聖書は神によってのみ書かれた、私たちにたいする生きたメッセージであるからです。


聖書は人間の考えに反します


聖書は完全に、人間が書くであろう書物とは完全に性質を異にします。 聖書は人類すべてが (作者、教師も含めて) 神からの贈り物である主イエスキリストを受け入れる以外には救いがないと断定しています。 また聖書は良い行いによらず、恵みによってのみ救われると教え、自分がへりくだることにより、自分が高められると教え、あなたがあなた自身の人生を失おうとするとき、あなたは人生を見つけると教え、また、偉大になるためにはます、皆に使える人とならなければならないと教えています。 聖書の中には他にもいろいろ人間の考えに反することが書かれています。 人々は自分達の性質に反するようなことをは書かなかったでしょう。

聖書は率直に罪の性質について述べています。 人間は自分達を良く見せようとして、うまくごまかそうとします。 しかし、聖書は人間の短所、欠点をすべて述べ、人間に関してとても現実的な話を語ります。


最も高い道徳的基準


聖書の道徳的基準は人間に知られている道徳的基準の中で最も高いものなのです。

マタイ5:4448

「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

マタイ18:21-22

「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。“主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。” イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」


神より霊感を受けて書かれた


旧約聖書と新約聖書の中にあるすべての御言葉は、神の霊感に伴う口頭によって書き記され、人間に向けて書かれた神の啓示なのです。 これらすべての御言葉にはまったく誤りがなく、私たちの信仰と行いにたいして、権威あるルールを述べた神の言葉なのです。

“神の霊感による御言葉” とは聖書の筆者らの心に、神が特別な霊的影響を与えたことを意味します。 筆者らの原稿作成の働きのおかげで、書き移しによる間違いを別として、正しく訳された場合、それらの原稿はまとめあげられて、誤りのない信仰と行いに関するルールを構成してゆくのです。

第二テモテ3:16

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

“神の霊感によるもので”というフレーズは、ギリシャ語の一つの単語から訳されました。 直訳では“神が息をした”という意味があります。 “神の霊感によるもので”をもっとも原語に近い現代語で訳すと“神は人間の吐いた息に対して新しい息を吹き入れた”という訳が適切です。

第二ペテロ1:20-21

「れには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

ヘブル1:1

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、」

第一テサロニケ2:13

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」


正確に記録されています


聖書に書かれてことすべては、真実性をもって記録されたのですが、 聖書の中で言われていることのすべてが、真実であるということではないのです。

たとえば、聖書の中には悪魔や、また神に反対する人々によって述べられた文章が含まれています。 これらの言及は必ずしも真実ではないのです。 しかしながら、彼らは聖書に記されているように述べたのは確かなのです。

ですから、私たちは聖書を、神のメッセージとして、全面的に信頼を置くことができます。


聖書の目的


聖書の目的は、われわれ人間に、神がどのようなお方であるかを解き明かすためにあります。 私たちがイエスキリストをとうして神の御前に導かれ、そのことにより、神に関することをよりよく知ってゆくことができます。

ヨハネ1:14

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ルカ24:27

「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」

ヨハネ20:31

「 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

聖書をぜひ自分自身で読んでみてください、 そして、どうかあなたの上に神ご自身と神の御心が明らかに示されるよう、神に願い祈ってみて下さい。